連帯の30年

定住難民のニーズに応えて
急務は日本語の習得 急務は日本語の習得 3カ国のジャンボリー開催
  • 急務は日本語の習得

    インドシナ難民連帯委員会は発足後、直ちに始めたのが難民の会員登録であった。発足当時難民会員は、ベトナム・ラオス・カンボジア合わせて20人であったが、同じ年の11月には506人となり、これらの会員は連帯委員会の活動が広がるにつれ、徐々に増えていった。

     日本に定住した難民にとって、異国での生活は決して容易なものではなかった。言葉の障害、文化や習慣の違い、就職や住宅問題、病気や子供の教育をはじめ、日常のさまざまな問題が難民に大きな負担となっていた。

     そこで、インドシナ難民連帯委員会は難民の負担を軽減するため、これらの問題に取り組むことにした。特に、日本で生活する上で日本語の習得は急務であったため、奨学金制度を設けて日本語学習を支援するとともに、小・中・高校入学生に入学祝い金を支給した。1983年(昭58)の1年間に日本語学校入学奨学金の給付は、ベトナム35人、ラオス5人。入学祝い金の支給はラオスの16人であった。

     また、1983年(昭58)は難民会員の強い要望に応え、ベトナムとラオスの歴史書を出版し、会員に配布した。日本では祖国の歴史や文化に触れることが難しいこともあって、大変喜ばれた。同時に、日本語(6回)、ベトナム語(3回)、ラオス語(3回)による会報の発行も始めた。  これらのほか、旧暦の正月を祝うベトナム人の集い(2月12日)、在日ラオス人旧暦新年を祝う会(4月9日)への協力。さらに、定住生活に必要な基礎知識を身につけるための、ラオス・ベトナム会員研修会を行った。

     海外支援としては、インドシナ難民を助ける会と協力して、中古衣類(200トン)をタイのバンビナイ難民キャンプやキャンプ周辺の生活困窮者に寄贈した。さらに、タイとカンボジアの国境地帯に滞留する避難民(難民キャンプに入れない難民)に対しても、インドシナ難民を助ける会を通して支援の手を差し延べた。

  • マイ・ヒュー・タンさんと興産丸の北倉船長との対面

     1983年(昭58)の劇的な出来事は、ベトナム会員と命の恩人の興産丸船長との対面であった。命の恩人を探していたのは、在住ベトナム人のマイ・ヒュー・タンさん(当時29歳)で、恩人の船長さんは、名古屋市に住む北倉隆男氏である。

     タンさんは1977年(昭52)5月、老人や子供を含め79人のベトナム人とともに、小船で祖国を脱出した。脱出後、北ベトナム軍から発砲を受けたが、何とか難を逃れた。途中、台湾、シンガポール船からは食料の補給を受け、マレーシアでは上陸を拒否されたりしながら航行していたところ、脱出10日目に北倉船長の貨物船「興産丸(2,900トン)」に救助され日本へ。

     それから6年目の6月17日、海員組合の協力で北倉船長との再会が海員組合本部で実現した。この日は海員組合の土井組合長、インドシナ難民連帯委員会の武藤会長が同席した。6年振りに再会した北倉船長に、タンさんからは花束を、武藤会長からは記念品を贈呈した。また、これまで難民救助に積極的な協力を行ってきた土井組合長には、感謝状が贈られた。

     これに対し北倉船長は、「大変嬉しいことだ。79人の難民が、1隻の船に鈴なりになっているのを発見し救助した。フィリピンや台湾に降ろさずに、沖縄まではとにかく連れて行こうと思った」と、当時を思い出しながら語り、土井組合長も「船会社は不況で、入港が1日でも遅れるとそれだけ経費がかかるので困惑気味だが、船乗りは人道的な立場に立って救助している。これからも協力していきたい」と、述べた。

     1997年(昭52)当時、タンさんとともに救助された79人のうち、78人までがアメリカ、カナダ、オーストラリア、フランスなどへ移住、日本に定住しているのはタンさん1人である。

  • 3カ国のジャンボリー開催

     インドシナ難民連帯委員会は1983年(昭58)の8月14・15の両日、山中湖畔で「自然の中で平和と自由を語ろう」をテーマに、「83年夏ジャンボリー」を開いた。

     初めてのジャンボリーには、ベトナム、ラオスの難民200人が参加し、参加者の交流を深めた。14日午後の開村式でインドシナ難民連帯委員会の武藤会長は、「山中湖の自然は、ベトナムやラオスとは違うかもしれないが、大いに満喫して心のかよった集いにしてほしい」とあいさつをした。  開村式の次は、実行委員会が用意した材料を使っての夕食作り。祖国料理を堪能した夕食の後は、ジャンボリーのメイン行事であるキャンプファイアー。山梨同盟の軽快なバンド演奏でオープニング。地元の山中湖明神太鼓保存会による勇壮な太鼓が打ち鳴らされ、自由・平和の火文字に点火されると、集いは最高に盛り上がった。

     日本の盆踊り、ベトナム、ラオスの民族舞踊が披露され、3カ国のエール交換となった。夜が更け、キャンプファイアーの火が消えても、バンガローの回りでは語り合いが続いていた。
    翌朝は連帯の体操、西瓜割りなどを楽しんだ後、閉村式を行って2日間のジャンボリーを終えた。