連帯の30年

インドシナ難民連帯委員会からアジア連帯委員会へ
ラオス難民の帰還とその対応 ラオスで小学校の建設
  • ラオス難民の帰還とその対応

     カンボジアでは1978年(昭53)12月のベトナムによる軍事介入以来、シアヌーク、ソン・サン、ポルポトの3派からなる民主カンボジア連合政府と、ベトナムが支援するヘン・サムリン政権とが内戦を続け、大量の難民・避難民を発生させていたが、1991年(平3)10月にパリで和平合意が成立し、各派は停戦に入った。

     このような情勢を受け、1992年(平4)3月から93年(平5)5月までに、38万人の難民・避難民が祖国へ帰還した。これにより、タイのカンボジア難民は全員が帰国した。

     また、ラオスでは1991年(平3)6月、タイ政府、ラオス政府およびUNHCRが三者会議を開催。タイに滞留するラオス難民の帰還計画に合意し、これに基づきタイから4万9,000人が祖国へ帰っていった。さらに、ベトナムへは8万5,000人が帰還したといわれている。これによりタイのラオス人、ベトナム人難民キャンプはこの1年内に閉鎖することに決まった。

     ところで、難民が故郷に帰れたからといって、問題が解決した訳ではなかった。祖国は戦争や内戦で疲弊し、困難な状況は依然として続いていた。
     そこで、インドシナ難民連帯委員会は論議を重ね、これまで行ってきたタイの難民キャンプへの救援はキャンプが存続する限り続けていくが、同時に、難民が帰還した祖国の復興にも役割を担っていくべきだとする結論に達し、1993年(平5)5月の第12回定期総会で名称を「インドシナ難民およびアジアの恵まれない人々と連帯する委員会(CSIR)」に変更した。

     さらに、将来の活動を展望し、アジアの開発途上国との連帯を意識して、1996年(平8)5月の第15回定期総会では「アジア連帯委員会(CSA)」に名称を変え、名実共にこれらの状況に対応することにした。

  • ラオスで小学校の建設

     本連帯委員会は以上の動きに対応し、新しい救援の道を探ることを目的に1994年(平6)9月、ラオスへ調査団を派遣した。調査団はラオス政府関係者、UNHCRラオス事務所、日本大使館などの協力を得て、帰還難民定住地域であるサイタニ自治区クッサンバット村(首都ビエンチャンから40km、人口1,000人)をはじめ4カ所を訪れ、調査をした。

     その結果、道路や通信、橋梁などの基盤整備も大切だが、優先順位は「教育と医療」という結論に達した。その中でとくに、ラオス政府関係者、UNHCRは帰還難民定住地域での「学校建設」を望んでいた。10月に開催した第84回常任理事会はラオス調査団の報告を受け、新規事業として当面は可能な限り継続的に小学校建設を進めることにした。

     この決定に基づき、1995年(平7)2月には、クッサンバット村に小学校(5教室、1職員室、1物置=317.8m2)建設を着工した。そして、5月には完成し、同月の24日、ラオス政府代表、サイタニ自治区代表、クッサンバット村長はじめ200人の村人が参加して引き渡し式が行われた。

     この引き渡し式にUNHCRラオス事務所代表、日本大使館の和田大使とともに出席した金杉会長は、「この小学校建設の運動を通じて、日本人とラオス人の友情が芽生え、そして大きく育ち、その友情が『難民を出さない平和なラオスの国づくり』に役立つよう心から念願している」とあいさつした。

     また、この小学校建設に続き、第2番目はビエンチャン郊外のホンガム村に建設。1996年(平8)2月15日に引き渡し式が行われた。このようにして1995年(平7)から2000年(平12)の6年間に1つの中学校と10の小学校を建設し、ラオスの国づくりに協力してきた。建設にあたっては、連合の「愛のカンパ」からの寄贈と全国各地の団体・個人から寄せられた「学校建設募金」が使われ、子供たちへのノート、鉛筆、消しゴムなどの文房具は「ふきの会」から贈られた。
    また、このほか1999年(平11)からは、ラオスの生活困窮者に救援衣類を贈る事業も開始した。