連帯の30年

むすび
むすび むすび むすび

 20世紀は「難民の時代」だといわれている。それは、地域紛争や民族紛争が世界各地に起こり、1日に1万人以上が難民化したという理由によるものである。冷戦構造の崩壊により、新たな国際秩序の構築に向けて、世界各地で紛争が起き、さらに大量の難民が発生した。

 UNHCRによると、1994年(平6)12月現在、世界には2,700万人の難民と、国内の紛争激化に伴って国内で難民化した避難民が、2,000万人以上いるといわれている。

 「人種、宗教、国籍、政治的意見あるいは特定の社会的集団の一員であるという理由で、迫害を受けたり、あるいはその恐れがあるために、その人の国、あるいは住んでいる所から逃れ、その後帰国できないか、あるいは帰国を望まない人」を難民と定義している。

 しかし、現在はこの条約に定められた以外に世界各地で起こっている政治的混乱や飢えによって国外に逃れた人々や、外国の支配や占領下にあって国外に逃れず、国内にとどまっている人々が多数存在している。この人たちは「広義の難民」と呼ばれ、支援の手が差しのべられている。

 難民問題は世界的規模で発生し深刻の度を増していたが、アジア連帯委員会はアジアの一員という立場から、とりわけ、「日本に定住している難民の自立を助ける活動、タイのベトナム・ラオス・カンボジア難民キャンプへの支援、アジア各国の難民キャンプへの救援、タイの生活困窮者への手助け」などに取り組んできた。

 1992年(平4)頃からインドシナ諸国が安定の方向に向かったため、国連は難民の祖国帰還を開始した。しかし、祖国へ帰ってはみたものの、故郷は戦争や内紛で疲弊し、他の開発途上国と同様、国民は貧困、飢餓、劣悪な生活環境、文盲などに苦しんでいた。

 そこで、アジア連帯委員会は「難民の祖国復興支援」および「開発途上国支援」にも役割を担うべきだとして規約を改定し、1995年(平7)からラオスの復興支援の一環として、「小学校建設を開始」し、今日までに1つの中学校と10の小学校を贈ってきた。
 このようにアジア連帯委員会は、20年にわたり地道な草の根活動に取り組み、NGOとしての役割を担ってきた。
 しかも、これらの支援はお仕着せではなく、難民の皆さんは何を必要としているのか、十分なニーズ調査を行った上で支援活動を進めた。
 日本に定住している人々については、在日ベトナム・ラオス・カンボジア各協会の代表と十分に協議を重ねた。
 海外支援も同様で、タイのベトナム・ラオス・カンボジア難民キャンプについては、UNHCRタイ事務所や難民キャンプ自治会の代表などと。タイの生活困窮者についてはタイの労働社会福祉省や孤児院など関係先と。ラオスの小学校建設についても、国連ラオス事務所、ラオス側窓口の労働社会福祉省、在ラオス日本大使館と事前協議を重ねた。

 救援品の引き渡しについても、人任せではなく、救援を必要としている人々の手に渡るまで、アジア連帯委員会の管理の下で作業が進められた。小規模な活動であっても、受ける側のニーズに応える救援というのは双方の顔が見える活動であり、互いの信頼関係を築き上げる上で極めて効果的な方法だと確信している。

 現在、アジア連帯委員会のように、国際協力に関わっているNGOは、およそ300団体だといわれている。そして、これらの団体は、他の国々のNGOと連携して開発途上国の貧困撲滅、教育水準や保健医療の向上などに取り組んでいる。規模こそ小さいものの、日本のNGOと開発途上国のNGOや市民が連携していくことの必要性は、益々重要になってくるであろう。

 しかし、わが国のNGOの弱点は、組織基盤の脆弱さにある。とくに資金的な弱さと人材の不足は多くのNGOに共通している。
 ところで、本来、開発途上国の貧困層を対象としたODAが必ずしもその目的のために生かされていない、と指摘されて久しい。日本のODAは世界161カ国に財政支援を行っており、1996年(平8)のODA予算は総額1兆1,452億円(2000年には、1兆4,081億円で10年連続世界一)で世界最大の規模に達しているが、その内実はどうなっているのだろうか。

 1991年(平3)の統計では、日本のODA援助の約41%は橋や道路建設といった産業基盤の整備に向けられ、貧しい人々のための基礎的生活分野への出資は22%に過ぎない。

 例えば、ネパールのダム建設である。日本政府は、住民の反対が少ない地域に今後、産業用電力が不足するとして、援助を決めた。
 しかし、現地NGOは、「電気を使用する世帯は1割に過ぎない。ダムが故障したら自分たちでは直せないし、万が一使えなくなったら債務だけが残る。それが心配だ」という。電力は貧困の解消になるかもしれないが、国民の4割がいま現実に、慢性的な栄養不良にある国にとって、巨大なダム建設の優先順位がそれほど高いとは思えない。

 また、日本政府はカンボジアに脱穀機を援助したが、カンボジア政府はこれを民間に1台約9万6,000円で売り渡した。カンボジアでこれを買えるのは、村の有力者か金貸しである。彼等は、脱穀機を農民に貸しては使用料を取っているという。

 これらはほんの1例だが、国民の税金である日本のODAが相手国の貧困解決に本当に役立っているのか、相手国の国民のニーズを掌握しているのか、しっかりと問い直さなければならない。

 これらの課題について、連合総合生活開発研究所が1996年(平8)にまとめた「新しい社会セクターの可能性」の中で、次のように提言している。

 「日本のODAについては、例えば、『贈与比率』の低さ、経済インフラ分野への援助対象の偏向、人員・組織体制の不十分さ、不明確な援助方針などがつねづね指摘されている。この点で近年注目を浴びているのは、欧米諸国でかなりの比重を占めているNGOによる援助である。これは、政府間で実施するものでは行き渡りにくい、いわば『草の根レベル』の途上国援助で、地球的・人間的観点から行われるものである。NGO活動に対する支援として外務省がNGOへの補助を始めたのは1989年であり、規模の拡大や制度整備も年々進んでいる。しかしながら、96年度予算でみるとNGOへの補助金は10億円(前年比の3割増)、NGOと協力して行う小規模な『草の根無償援助』は45億円(同5割増)にすぎない。ODAは被支援国の自主性を尊重し、自立への活動を補完することに重点を置くべきであり直接、民衆の生活向上に振り向けられるべきであろう。そのためには、政府の開発協力活動を有機的に補完するものとしてのNGO活動の重要性を認識する必要がある」と指摘している。

 同時に、この書の中で、連合がドイツ、オランダ、スウェーデン、カナダ、アメリカのNGO活動を調査した『ODAによるNGO支援(1995年4月)』について紹介している。「これらの国々では、NGOが政府の開発協力活動の重要なプレーヤーとして国や社会から明確に位置付けられている。さらに、NGOは、政府の援助では手の届かない草の根レベルで効果的な活動能力をもつなど、政府の活動と有機的な補完関係にあると位置付けられている」と報告している。先に述べた如く、ODAの悪しき現状を克服し、貴重な国民の税金を有効に活用するためにも、ヨーロッパ主要国の事例を生かし、NGOの役割拡大を目指すべきであろう。

 日本は敗戦当時、衣食住に事欠き、空腹を抱えて茫然自失の状態にあった時、援助の手を差し延べてくれたのはユニセフであった。1949年(昭24)から全国の学校や保育所、肢体不自由施設などに対し、ミルクや食料、衣料用の原綿、医療用器材などが贈られた。これらの援助総額は1964年(昭39)までに、当時の金額で65億円に達したといわれている。

 敗戦から復興の苦しい時期に、多くの国々からこのような援助を受けたことを思えば、豊かさを享受している我々としては、「難民が帰還したインドシナの国々の復興」や「アジアの開発途上国」に手を貸してゆくことは当然の責任であろう。

 「食事が1日に3回食べられない、衣服に着替えがない、住まいには屋根がない、トイレがない、小学校に行けない、医者も看護婦もいない、医薬品もない、娘を売らなければならない、米を輸出しているのに米が食べられない」という状況におかれている人々が今、10億人に及んでいるといわれている。また、これらの問題は現在だけではなく、将来にわたる問題でもある。

 アジア連帯委員会は結成20年という節目の年を契機に、これら困難な問題を抱えているインドシナ諸国やアジアの開発途上国の負担を軽減させるため、これまでのノウハウを生かして、支援活動をさらに発展させていくことにしている。